いつの話してるの?という感じではあるが、ずっと思っていた事なので書いておく。
『Shibuya Marble Texture-PCCS-』は、ヒプマイの中でもかなり初期の楽曲で、まだ乱数や帝統の正体も明かされる前の曲。なんだけれども、やっぱり幻太郎のパートのリリックが美麗だなぁと感じる。
まず、幻太郎パートのリリックはこれ。
木漏れ日を辿ろうとする百舌の瞳や 微笑みを象るような六花のひとひら
ゆく河の流れ その泡の中で いつかの約束を忘れまいと日々を奏で
不意に幻は溶け風ごと華やいだ またデタラメ集めには事欠かないな
彼らとなら新しい頁を捲れそう なんてもちろん 嘘ですけど
「ゆく河の流れ」というのはなんとなく過ぎ去っていく日々、「その泡の中で」は河の流れにふと浮かびまた消える泡のことで、いつ終わるかもわからないもろくてはかないもの、つまりは当時の幻太郎にとってのPosseとの日々。「日々を奏で」…これが一番美しいと言えるかも。
決して日々は「過ごす」「暮らす」ものではなくて、自分で音楽のように「作り上げる」ものなんだよね。もちろんあらかじめある楽譜なんてないし、演奏する楽器が決まっている訳でもない。全てが自分次第で、その日々が芸術にすらなりうる。たった一人で1日を過ごすソロパートもあれば、大切な人と過ごすデュエット、トリオ、カルテットもある。大勢の人の一部分になるオーケストラな日もあるかもしれない。一生がカデンツァなんだ。
さらに、そもそもこの「ヒプノシスマイク」というコンテンツ自体が音楽に属しているわけなので、幻太郎を含む全てのキャラクターは音楽の中に生きている。そういうメタ的な部分についての作詞者・弥太郎さんの解釈が素晴らしいよね。
「不意に幻は溶け風ごと華やいだ」という歌詞は、「その泡の中で」ともつながってくる。この時期のFling Posseは、そのチーム名通り何の繋がりもない「刹那の友」(少なくとも幻太郎にとっては)。今までおそらく関わることのなかったタイプの人間とのあれこれが、何だかんだ刺激的なんじゃないかな。でも、それは泡のようにいつ消えるかもわからない幻。幻ではあるけれど、風に乗って花のような芳香をわずかに幻太郎の記憶に残してはらりと消える。もう二度と起こらないけれど、忘れることはない美しい思い出になる予感がしているのかもしれない。
この曲を聞くと、Fling Posseとの記憶が花として幻太郎の手の上に乗っていて、それが風に揺らされ花びらから崩れ、幻太郎の手から離れていく映像が浮かぶ。加えて上で書いたことを付け加えると
① 花がちゃんと崩れる
② 花の香りがする
つまり幻=花は、造花じゃないんだよね。「嘘=つくりごと」を生業とする幻太郎との対比が綺麗だなぁと思う。
「彼らとなら新しい頁を捲れそう」というのは、乱数、帝統といると新しい視点が得られるかも、という直感だと思う。職業:小説家の幻太郎らしい表現。小説は人間を描く。しかもそれで食べていくには、多くの人間の心に響くものでなくてはならないし飽きられる作家であってはならない。つまり常に刺激を必要とする(明治〜昭和の文豪がギャンブル・薬物に手を出すことがあったのもこのためだったりするのかな)。でも、一人を除き幻太郎に親しい人と思われる人物は見受けられない。そんな中、幻太郎の日常に飛び込んできた異色の二人。自分の生活が変わりそうな予感を、「頁」という、めくる度にワクワクするワードに閉じ込めたセンスには脱帽。
「なんてもちろん、嘘ですけど」。お決まりの文句だけど、ヒプノシスマイクの設定的に疑問。「嘘ですけど」が本当でも嘘でも設定に矛盾する。わからん。
というわけで、だいぶ前の曲についての感想でした。
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